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「1114」 合理的選択で読み解く沖縄戦略 属国は「政治ゲリラ戦」をどう戦うのか 廣瀬哲雄研究員 2010年3月15日
合理的選択で読み解く沖縄戦略

属国は「政治ゲリラ戦」をどう戦うのか

廣瀬哲雄(副島国家戦略研究所研究員)


第1章 普天間基地移設と大田昌秀
1 はじめに

 沖縄県宜野湾(ぎのわん)市にある、アメリカ海兵隊の基地である普天間(ふてんま)飛行場を、同じ沖縄本島内にある名護(なご)市辺野古(へのこ)地区に移転が決定したのは、今から12年前の1997年である。沖縄における施設及び区域に関する特別行動委員会(SACO, Special Action Committee on Facilities and Areas in Okinawa)が、普天間基地を移設すると合意したのは、1996年。移設候補地が名護市の辺野古地区に決定したのが1997年である。この合意から12年、親米政権である小泉政権を経ても、普天間基地は、いまだに移転できないでいる。

 2010年1月には、名護市の市長選挙が行われ、市長が交代した。1997年以来、名護市は3人の市長と4回の市長選が行われた、これまで当選した市長は、一貫して基地移転を条件付きで容認してきた。基地受け入れ以来5回目の選挙となる今回、基地移転反対を公約とした市長が誕生した。

 こうした動きは、沖縄の県民、特に名護市民の考えが変化したかのように見える。しかし私は、過去の沖縄在住の経験から、このような考えを取らない。普天間基地の沖縄県内への移設について沖縄は、一貫して反対していると考えている。選挙結果から、その時々で、県内への基地の移設に対して、賛成と反対があるように見える。だが本当は、基地拡張には一貫して反対しているのだと考えている。そうでなければ、12年間も、アメリカや日本政府を、いわばたぶらかし、結果的に基地の着工をさせなかったことの説明がつかない。

 この稿では、合理的選択論(ごうりてきせんたくろん)を用いて、この12年間に、沖縄が用いた戦略について分析をする。沖縄から見たら宗主国(そうしゅこく)であるアメリカや日本政府に対して、属国である沖縄の取った、しぶとい、粘り強い、いわば「ゲリラ戦」を戦う戦略は、属国が宗主国に対して戦う一つのありかたを示すものと考えている。


2 大田昌秀という知事

 沖縄県は、昭和47年に、施政権がアメリカから日本へ変換され、日本へ復帰した。復帰から4人目の知事として就任したのが大田昌秀(おおた・まさひで)である。大田についての略歴を、ウィキペディアから転載する(2010年2月3日)


大田昌秀元沖縄県知事

(転載始め)

 大田 昌秀(おおた まさひで、1925年6月12日 - )は、日本、沖縄の政治家、社会学者。元沖縄県知事、元社会民主党参議院議員。琉球大学名誉教授。沖縄県島尻郡具志川村(現・久米島町)出身。

経歴

 沖縄師範学校に在学中の1945年年3月に鉄血勤皇隊に動員され、情報宣伝隊の「千早隊」に配属された。沖縄戦の中、九死に一生を得るが多くの学友を失う。

 琉球大学教授時代はメディア社会学を専攻し、新聞研究・報道研究等に従事。また、沖縄戦の歴史的研究にも取り組み、『総史沖縄戦』(1982年、岩波書店)をはじめとする著作を刊行した。

 沖縄県知事在職中には沖縄における米軍基地問題に取り組んだ。第2期目から反軍反戦反基地姿勢を明確にした。1995年に軍用地の代理署名を拒否したことにより、直前に起きた米兵の少女暴行事件とともに大きな注目を浴びた。1996年の普天間基地移設問題では沖縄の過度の負担から県外移設を強行に主張。移転先自治体として名護市が自治体に浮上した際には「県としては(直接的な当事者である)地元名護市の意向を尊重する」と首相官邸に述べていた。「県外移設」が本音の大田のこの発言は、過度の基地負担が集中する沖縄県全体で基地反対ムードがあったことで実現可能性が皆無という自信から出た発言であるが、1997年12月に名護市長が受け入れを表明したことで、「県外移設」という自分の本音と「名護市意向尊重」という自分の言質の狭間に苦しむようになった。普天間基地移設問題が名護市移設ベースになったことについて、大田は名護市移設ベース実現の具体化の話し合いを求めた首相官邸や名護市長に対し、彼らに極力会うことを避け、彼らと対面しても普天間基地移設問題について触れたがらないようになった。

 自身に対する言葉の責任による退陣と不出馬及び退陣に伴う県知事選挙では自分が表舞台に出ることを避けながらこっそり自分に代わる「名護市移転反対・県外移設」候補の擁立をすることもなく、自分に矛盾を抱えたまま1998年の知事選挙に立候補をした。しかし、経済の停滞や度重なる公約違反により知花昌一ら大田支持層からも反目され、稲嶺恵一に敗れ落選した。稲嶺は、米軍基地問題を争点から避け、失業率の高さから「県政不況」を徹底して争点にしたのが功を奏した。全国的には、これまで革新陣営に与してきた公明党が表向き自主投票を表明したが、実際には稲嶺を支援。翌年の自自公連立政権への布石の一つとなった。

 参議院議員転身の際、社民党から比例区で立候補したため、知事時代支持・支援していた沖縄社会大衆党や日本共産党からは強い反発がある。2007年夏の参院選以後も議員を続ける意思を強めていたが、本部より公認を外されたため、立候補できず政界を引退した。後継は元読谷村長・沖縄県出納長の山内徳信。

履歴

* 1945年(昭和20年)- 沖縄師範学校本科2年時、学徒隊の鉄血勤皇隊に動員され、沖縄戦に参戦
* 1946年(昭和21年)- 沖縄文教学校卒業
* 1948年(昭和23年)- 沖縄外国語学校本科卒業
* 1954年(昭和29年)- 早稲田大学教育学部英文学科卒業
* 1956年(昭和31年)- 米シラキューズ大学大学院修了(社会学専攻)、琉球大学財団に勤務。
* 1963年(昭和38年)- 東京大学新聞研究所にて研究
* 1968年(昭和43年)- 琉球大学法文学部教授就任
* 1978年(昭和53年)- フルブライト訪問教授として米アリゾナ州立大学教授就任
* 1990年(平成2年)- 琉球大学辞職。11月18日の第6回沖縄県知事選挙に出馬、現職西銘順治を破り当選。石垣空港建設反対を公約にしていた。
* 1994年(平成6年)- 11月20日、任期満了に伴う第7回沖縄県知事選挙で当選(2期)。
* 1998年(平成10年)- 11月15日、任期満了に伴う第8回沖縄県知事選挙で稲嶺惠一に敗れ落選。
* 2001年(平成13年)- 7月29日、第19回参議院議員通常選挙(比例区・社会民主党)当選。
* 2007年(平成19年)- 7月29日、第21回参議院議員選挙に出馬せず政界を引退。

(転載終わり)

 大田はこれまで知事だった屋良朝苗(やら・ちょうびょう)や平良幸市(たいら・こういち)、西銘順治(にしめ・じゅんじ)らと決定的に違っている。略歴をみればわかるように、大田は、元々がアメリカで社会学を学んだ「学者」である。大田の研究分野は、「新聞から読み解く沖縄」である。沖縄県民とは、外側から見ればどのような民族なのだろうかということを、冷静に分析するのが大田の専門分野である。いわば社会学のフィールドワークの手法を、実体験と新聞で行うというものである。大田の沖縄人に対する考え方のエッセンスとして、彼の代表的な著作である『沖縄の民衆意識』(弘文堂新社,1967年)の書評として、殿木圭一(とのき・けいいち:元東京大学教授)が書いた一文が参考となる。

(引用開始)

 外面的において極度に事大主義的で、内面では極度に自己卑下となって表現される沖縄人の生活様式ないし行動様式は、沖縄の歴史的背景に由来するとともに、沖縄の政治形態、社会構造に対応しているものであると明らかにしている

殿木圭一「書評 大田昌秀『沖縄の民衆意識』(弘文堂) 大田昌秀、辻村明『沖縄の言論』(至誠堂)」,『新聞学評論』第17号,p.141-142.
(引用終了)

 沖縄県民を冷静に見ることのできた大田は、その23年後に、沖縄の知事となった。「属国の長 大田昌秀」の誕生である。

3 不可解な大田の行動

 米軍基地の撤去を公約にしていた大田は、その任期中、不可解な行動に出ている。それは、

1.1995年、すでに米軍基地用地だった土地のうち、一部の賃貸借契約が切れた。これは、日本政府との賃貸借の更改契約を拒否した地主が多数いたからである。これに対し日本政府は、強制的に国と地主の賃貸借契約を結ぶ手続きである「公告・縦覧」(国の代行)の手続(代理署名)を、大田知事に依頼したが、大田知事は署名を拒否した。これを代理署名問題という。最終的に首相が代理署名し、沖縄県はその無効性を提訴した(後に最高裁で沖縄県の敗訴確定)。

2. 1996年の「日米地位協定見直しと基地の整理縮小を問う県民投票」を実施(基地縮小賛成が約89%)した。

3. 同年、1995年とは別に、代理署名問題が発生した。大田知事は、県民投票の直後、日本政府からの要請に応じ、代理署名を行った。

 というものである。これは 1「代理署名」の拒否、2 基地反対への意見表明と 3 代理署名の応諾、という一見矛盾した行動だった。

 大田は、どうしてこのような矛盾した行動を取ったのだろうか。沖縄でも、この大田の行動は理解されなかった。沖縄の地方紙の一つである『琉球新報』に掲載された記事を紹介する。この記事を読み解くことが、現在の沖縄戦略を読み解く鍵となる。なお、強調は筆者が行った。

(引用開始)
琉球新報1997年9月7日
あす県民投票から1年

基地の整理縮小と日米地位協定見直しの是非を問うた県民投票から、八日で一年が経過する。投票した有権者の八九・〇九%が賛成し、基地に「ノー」の審判を下した。しかし、その五日後に大田昌秀知事が代行を拒んでいた米軍用地強制使用手続きの公告・縦覧を応諾、反響を呼んだ。以後基地問題は、普天間飛行場の県内移設を含むSACO(日米特別行動委員会)合意、米軍用地特措法改正など激動し、政府の新たな沖縄振興策とも連動し、複雑な経過をたどっている。

都道府県レベルで全国初の試みだった県民投票は、県内全有権者の五三%にあたる四十八万二千五百人余が基地整理縮小に賛成票を投じた。だが、この一年、基地問題は民意に沿う形では必ずしも進展していない。昨年十二月のSACO最終報告では普天間飛行場を含め七施設が県内移設条件つきの返還となり、県民の間には「基地のたらい回しだ」といった反発がある。一方「橋本内閣の努力は評価すべきだ」との声もあり、意見が分かれている。

大田知事は県民投票直後の橋本首相との会談で、首相から新たな沖縄振興への支援の意思が示されたことから、公告・縦覧の代行を決意した。県民からは「県民投票直後の応諾は拙速だ」「県民への背信行為だ」といった批判が噴出。しかし、応諾以降の大田県政はSACO合意を一定評価するなど、基地問題で現実対応しながら、政府と振興策で共同歩調を取ってきた。

県は一貫して「最高裁の代理署名訴訟で敗訴し、司法での基地問題解決には限界がある」「応諾しても、基地問題への姿勢を後退させる訳ではない」(県幹部) としている。が、最近では海上基地問題への対応をめぐり、各方面から「県の姿勢が見えない」といった不満の声も出ている。

(引用終了)

 当時の沖縄のことがわからなければ、理解しづらい記事である。強調部分を解説していこう。

1 投票した有権者の八九・〇九%が賛成し、基地に「ノー」の審判を下した。しかし、その五日後に大田昌秀知事が代行を拒んでいた米軍用地強制使用手続きの公告・縦覧を応諾、反響を呼んだ

 大田は1995年に一度、米軍基地用地の賃貸借契約を拒否した地主の代わりに「代理署名」することを拒んだ。この軍用地は、1996年3月26日に橋本龍太郎首相(当時)が大田に変わって「代理署名」したことで手続きは終了した。沖縄県はこのことの無効性を訴え、裁判所へ提訴した。だが1996年8月26日に最高裁が沖縄県の訴えをしりぞけた。それが記事の最後のほうにある「最高裁の代理署名訴訟で敗訴し、司法での基地問題解決には限界がある」という発言につながっている。

 1996年には、新たに契約切れの米軍基地が多数発生し、同じように、大田知事が「代理署名」をするべきかが議論になっていた。またこの1996年には、米兵の少女暴行事件が発生し、沖縄人の反米感情が激しく高まったときでもあった。そんな中で行われたのが、1996年9月8日の「日米地位協定見直しと基地の整理縮小を問う県民投票」だった。

 ところが記事にもあるとおり、「投票した有権者の八九・〇九%が賛成し、基地に「ノー」の審判を下した。」にもかかわらず、「その五日後に大田昌秀知事が代行を拒んでいた米軍用地強制使用手続きの公告・縦覧を応諾」したのである。
 
2 この一年、基地問題は民意に沿う形では必ずしも進展していない。

 少女暴行事件を受け、少女に暴行をした海兵隊がいる普天間基地の移設が本決まりとなった。その移転先として浮上したのが、現在の名護市辺野古地区である。ここでいう民意とは、住民投票で示された沖縄県外への移設である。いつのまにか、沖縄県内への移設が決まってしまったのだ。

3. 大田知事は県民投票直後の橋本首相との会談で、首相から新たな沖縄振興への支援の意思が示されたことから、公告・縦覧の代行を決意した

1996年9月11日の琉球新報を引用する。

(引用開始)

沖縄振興策に調整費50億円 首相が知事に表明

 橋本竜太郎首相と大田昌秀知事は10日午後、首相官邸で会談した。首相は8日の県民投票の結果を踏まえて、米軍用地強制使用手続きに必要な公告・縦覧の代行を知事が拒んでいる問題を打開するため、(1)基地の整理・統合・縮小を推進し日米地位協定上の課題の見直しに努力する(2)4月の日米安保共同宣言を受け、米軍兵力の構成を含む軍事態勢については米国と継続協議する(3)振興策に関し、官房長官と知事らによる沖縄政策協議会(仮称)を新設し、50億円の調整費を充てる-ことなどを表明。知事は会談後、首相の対応を評価した。米軍基地問題は、政府と県が妥協に向けて動き始めた。
(中略)
会談は冒頭、知事が県民投票の結果を首相に通知。最初の45分間は2人だけで行なわれ、梶山静六官房長官、吉元政矩副知事らが加わり約三十分続いた。

(引用終了)

 この会談のあと、大田は代理署名を決意。この問題は、普天間基地の名護市辺野古への移転に焦点が移って行ったのである。

 一連の大田の行動は、こうして、一見、整合性を欠いているように見える。だから記事が「各方面から「県の姿勢が見えない」といった不満の声も出ている」と結ばれているのである。一連の流れからは、大田の基地戦略がなかなか見えないのである。ほとんどの沖縄県民は、同じ思いだったろう。この後大田は、3期目の知事選挙で落選してしまうのである。そして今でも、当時の大田の真意は伝わっていない。

 だが私は、この大田の行動を分析した結果、大田の取った行動は、実に合理的だったと結論づけることができた。次章からは、大田の取った戦略と背景を、合理的選択論で解説する。

第2章 属国生き残り戦略としての「大田戦略」

1 1995年の代理署名問題

 大田は、米軍基地を沖縄に置くことに対し、明らかに反対している。県民の意志を確認するため、県民投票までしている。筋金入りの基地反対論者である。その大田が、なぜ基地受け入れと、辺野古問題の所端を作ったのだろうか。多少複雑になるが、合理的選択論を用いて分析していく。

 ここで前提しているのは、大田という人物が、沖縄人を「冷静に」分析できる人物だ、ということである。先に示したように、大田の学者としての専門領域は、フィールドワークにより、沖縄県民とは、外側から見ればどのような民族なのだろうかということを、冷静に分析していく社会学である。このことが、大田の、一見矛盾するが、実は合理的な思考に大きな影響を与えているのだろう。

 大田は、沖縄県の主張である「米軍基地撤去」を実現して行くため、「土地の賃貸借契約の期限切れ」というカードを使った。日本政府が、地主と契約をしないまま、「米軍基地」として土地を使用し続けるのは、日本政府による、土地の違法な占領である。このまま日本政府が、違法な土地の占有という事態を続けるなら、裁判所の判決を通じてこれを排除できるのでは、と考えたのだ。もしこの方法が確立するなら、契約切れをまてば、数十年後には確実に米軍基地がなくなるのである。

 しかし最高裁判所は、この手法に対して、日本政府の「強制収用」を合法とした。この方法では、基地は撤去できないことが分かった。

 つまり、どんなに沖縄県が基地を拒否しようとも、いざとなれば、日本政府は「強制収用」という形で米軍基地を設置し続けるということが、明らかになったのである。これを図にすると、次のようになる。


 この1995年時点で、沖縄県が、米軍基地に賛成しようが反対しようが、日本政府は、沖縄に基地を強制することが分かったのである。ただ反対するだけでは、絶対に基地はなくならない。アメリカと日本政府が、米軍基地を広げたいと思ったら、沖縄県の意志とは関係なく基地は拡張するのである。これをどうやって抑えるかが、沖縄の重要な戦略となったのである。

2 優先順位

 1995年から1996年にかけて、米軍基地戦略について、沖縄県は重要な方向転換を迫られていた。ただ「基地反対」を貫いても、日本政府が強硬手段を用いることで、結局は米軍基地が存続してしまうことが明らかになったからだ。

 ここで私は、基地に対する優先順位をつけたのではないかと考えている。

 これ以降も大田は、表面上は、「基地反対」「基地撤去」とはいう。これはこれで本音であり、嘘はない。大田は本当に、米軍基地の全面撤去を望んでいただろう。しかし本来、これらにも優先順位があるはずである。その優先順位について、明らかにはしていない。

 私が思うに、大田は、この順番づけを行ったのではないだろうか。先に述べたように、大田は、沖縄人を内側から観察していた人間である。大田は、まず沖縄人の基地に関する優先順位を以下のように考えたのではないだろうか。

 これまで日本においても、米軍基地、自衛隊基地に対して、多くの反対運動があった。地元住民が反対しているにもかかわらず、強制収用や強制着工を行った例を挙げれば例えば、砂川闘争やナイキ基地闘争などがある。形を変えれば、成田空港闘争も、似たような性質を持っている。それらの経験から、大田は、表1のようなケースに対し、国の取る対応を、次のように予測したのではないだろうか。

 大田は、沖縄人が、現在、受け入れることができるのは、4の「現在ある米軍基地の維持」までである、と考えたのではないだろうか。これらの中で、沖縄県民の負担が、最も少ないのは4の「現在ある米軍基地の維持」であるからだ。

 このことは、日本政府が、強制収用にコストがかかることとも影響している。同じ強制収用でも、代理署名は比較的簡単である。ある意味、ただ署名すればよいだけだ。元々、すでに米軍用地として使用しているため、行政代執行(ぎょうせいだいしっこう)のような、行政が警察や自衛隊といった実力を使って、強制的に住民たちを排除する必要がない。これより上位の、例えば基地の拡大や県内移設は、住民たちが容認しないかぎり、国の政策施行コストが高くなるのである。このあたりに失敗した典型的な例を一つあげるとすれば、「成田空港問題」である。

 あらゆる行政は、できるだけ行政施行コストを下げたいと考えている。それは、税金は取りやすいサラーリマンから取る、ということのように、行政の本能でもある。図1のように、沖縄県が、米軍基地絶対反対ならば、どんなにコストがかかっても、強制執行するしか日本政府に方法がない。もし沖縄県が賛成ならば、大変低いコストで実行できる。

 だがここで、沖縄人の米軍基地反対という意志が、「絶対」ではなく「相対」であるなら、話は全く違ってくるのである。

 つまり、日本政府の行政施行コストである実力行使のコストより、沖縄人を懐柔するコストの方が少ないなら、当然、日本政府は沖縄人を懐柔する方向に動くのである。この関係を、図2に示す。

3 「住民投票」から「代理署名容認」へ

 これまで私は、

1 1995年から1996年にかけて、沖縄人の総意として、米軍基地に反対していたこと。
2 沖縄人の総意として米軍基地に反対することは、結果的に米軍基地を残置(ざんち)してしまうこと。場合によっては拡大を許してしまうこと。
3 沖縄の選択として、とりあえず現状の容認だけは妥協できること。

を示した。

 このような前提にたった上で、沖縄からの基地撤去にむけて何ができるのか。沖縄としてどのような対抗策があるのか考えてみよう。

 まず第一目標は、これ以上基地を増やさないことである。そして第二目標は、基地を増やさずに、沖縄が生活していくことである。この二つを満たす解、つまり沖縄の長期目標は、

「米軍基地をこれ以上増やさずに、日本政府から財政的な補助を獲得すること」

 であると考えられる。この戦略を実行する方法として、どのような方法があるだろうか。合理的に考えれば、次のようになる。私はそれを「大田戦略」と名付ける。それは、

1 米軍基地問題における沖縄人内の意見を、適度に分裂させること。(大田戦略1)
2 沖縄人が日本政府に懐柔される可能性を示すことで、助成金等を獲得すること。そのためには、表1の優先度4「現在ある基地の維持反対」までは容認する。(大田戦略2)
3 そのまま堪え忍び、時を待つこと(大田戦略3)。
の3点である。

 こうして見ていけば、「県民投票」から「代理署名容認」までの、大田の取った行動の合理性が見えてくるのである。

 1996年の県民投票で、沖縄人は総意として「基地反対」を示した。沖縄県知事である大田も含めた「沖縄の総意」として、代理署名を拒否したらどうなるだろうか。結局は、前回(1995年)の代理署名と同じく、日本政府に「代理署名」されて終わりである。そこで大田は、「大田戦略1」を採用したのである。この関係を図3に示す。


 
 大田は知事として、「反対」を選択(選択3-4)することは、沖縄人に何のメリットもないと考えただろう。ここで3-4を選択することは、妥協の余地を示さないことでもある。それは、今後、日本政府の実力行使をより招きやすくなるという判断だったろう。

 大田の判断は、「容認」(選択3-3)だった。この選択と引き替えに、沖縄県は約50億円の補助金を得た(前掲:琉球新報1996年9月11日)。

 この大田の判断により、日本政府は、

(1) 米軍基地に対して、沖縄県は妥協の余地があること。
(2) 沖縄人への懐柔策として、基地関連だけでなく、それ以外
の振興政策も有効であること。
を学んだであろう。

 これに対し大田は

(1) 日本政府は、米軍基地問題に対し、沖縄県に妥協の余地があると考えたこと。それは、日本政府が強制着工よりも懐柔策を取るということ。
(2) 日本政府の要求が厳しければ厳しいほど、懐柔策としての補助金の金額が上がるだろうこと。今回は50億円だった。そのお金で、自立のための策を練ること。
(3) 強制着工をしないなら、時間稼ぎができるということ。その間に状況の変化を待つことができること。

との確信を得たであろう。

 大田と当時の日本政府との大きな違いは、長期的な状況の変化(政権交代やアメリカの覇権状況の変化)を織り込むかどうかだった。ここでは触れないが、沖縄と日本政府の、長期的な本当の勝負どころは、ここだった。この1996年の、県民投票から代理署名の問題を応用したのが、「普天間基地問題」なのだ。

4 普天間基地移転における沖縄の戦略

 ここまで見てくれば、現在、沖縄県と名護市が、この問題に対して選択している政策の一貫性について理解することができる。

 普天間基地を、同じ沖縄本島内の名護市辺野古に移設するということは、表1でいう沖縄県の基地に対する反対優先順位の「2現在ある米軍基地の県内移転反対」に当たる。これは、沖縄として、絶対に容認できない問題である。

 ということは、大田戦略に従えば、沖縄の取る戦略は次のようになる。

1 沖縄県と名護市、および名護市内同士で、適度に意見が分裂していること。日本政府に着工させないよう、決して「オール賛成」「オール反対」にならないこと。(大田戦略1)

2 米軍基地の県内移転は、絶対に容認できない。だからここでは妥協しない。むしろ妥協できないような提案をする。提案や対案は妥協の可能性を示す(反対なら、ただ反対すればよい)から、日本政府が勝手に懐柔できると思い込むだろう。そうすれば、この件は行政コストが高い分、補助金等の額が高くなる。(大田戦略2)

3 そのまま堪え忍び、日本政府が着工をあきらめるのを待つ。そのときは、まず名護市として反対を明確にする。日本政府が着工をあきらめるなら、沖縄のデメリットはない。(大田戦略3)

では実際に、この問題で沖縄県と名護市は、どのような動きを見せただろうか。図4を見ていただきたい。


 沖縄県や名護市の動きについては、様々なところで詳細な報道がなされているので、ここでは繰り返さない。注意深くそれぞれの報道を見れば分かるが、両者はこの12年間、選択4-1、4-4にならないような選択をしている。

 名護市内だけでも、1997年の住民投票(基地移設反対)と市長選(基地移設容認)という分裂をしている。このような分裂は、名護市民への懐柔の可能性を高く示すものである。実際に日本政府は、名護地域へ重点的に補助政策を実行しており、平成12年から約770億円が投入されたという(産経新聞:「普天間受け入れの見返り「北部振興策」鳩山政権が継続方針 計画見直しにもかかわらず」平成21年12月10日)が、実際には懐柔はされなかった。そのことは、基地移設反対を公約とした市長が、2010年1月の市長選で当選したことで明らかになった。

 沖縄県知事も、大田昌秀を選挙で破った稲嶺 恵一(いなみね・けいいち)は、元々が大田の盟友だった(新崎盛暉「11・15沖縄知事選 選挙で問われる沖縄の進路・日本の安保」,『金曜日』第240号(1998年10月23日))。稲嶺の後に知事となった、現職の仲井眞 弘多(なかいま・ひろかず)は、大田県政時代の副知事である。脈々と大田戦略は受け継がれたのである。


稲嶺恵一・前沖縄県知事

仲井眞 弘多・現知事

5 おわりに

 2010年1月の名護市長選挙で、普天間基地移設反対を公約とする市長が当選した。これは、鳩山政権の誕生により、「普天間基地移設反対」を表明できるようになったからだと解釈できる。当選した稲嶺氏は、公約として「那覇から名護まで鉄軌道を導入し地域振興を図る」と語っている(琉球新報:2010年1月24日)。これは、同じ補助でも、基地依存ではなく、沖縄の社会資本整備にお金を使いたいとの表明でもある。琉球新報の昨年12月末の記事、そして名護市長選を終えた後の2月19日の記事で報じられている。

(引用開始)

長年の夢 走り出す 沖縄関係予算・鉄軌道調査費計上
琉球新報(2009年12月26日)

 国の2010年度予算案で、鉄軌道導入に向けた調査費3000万円が計上された。県内では、慢性的な交通渋滞の解消や、経済振興の観点などからLRT(次世代型路面電車)導入などを訴え民間、経済団体などがこれまで動いてきただけに、関係者からは「実現に向けた大きな一歩だ」「今後、県民を巻き込んだ交通体系の議論が必要」と期待の声が高まった。

 LRT導入を訴え活動する「トラムで未来をつくる会」は先進地のヨーロッパや富山市を視察し、06年にはLRT導入の調査報告書を発表してきた。

 同会の富本実会長は「念願の鉄軌道導入に大きな前進だ」と歓迎。「未来の沖縄にどんな交通機関が必要か県民を巻き込んだ議論をすべきだ。その上で調査に県民の声を反映してほしい」と求めた。

 沖縄経済同友会はLRTで沖縄本島の南北を縦貫する構想を提唱し、県の沖縄21世紀ビジョンに盛り込むよう求めてきた。同会地域経済活性化委員会の佐喜真実委員長は「正直、こんなに早く計上されるとは思わなかった」と驚いた様子。「路面電車の進化型であるLRTの線路は、道路に埋設する技術革新によって可能になり、導入をめぐる国の法整備も進んでいる。調査費計上は実現に向けた大きな一歩で画期的」と声を弾ませた。

 昨年9月に沖縄国際大で開かれた交通権学会「九州・沖縄部会」では、沖縄での鉄軌道導入の必要性が強調された。

 交通権学会会員の照屋寛之沖国大教授は「沖縄は戦前、軽便鉄道があった。鉄道ができない地域ではない。今後の沖縄の持続的発展を考えれば交通渋滞が絶えない車社会には限界がある。予算計上は意義深い」と感慨深げ。「お年寄りは子や孫に頼らないと外出できないのが現状で、高齢社会を考えても鉄軌道を真剣に考えねばならない」と経済的発展、行政サービス両面での意義を強調した。

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稲嶺市長、名護移設反対を伝達 普天間で初の会談
琉球新報(2010年2月19日)

 【東京】稲嶺進名護市長は18日、首相官邸で鳩山由紀夫首相、平野博文官房長官とそれぞれ会談し、米軍普天間飛行場の移設についてキャンプ・シュワブ沿岸部、陸上部を含め名護市への移設反対と県外、国外への移設を訴えた。会談は初、非公開で行われた。

 稲嶺市長によると、「海にも陸にも造らせないと市民に約束して市長選に当選した。民意として、くみ取ってほしい」と要望したのに対し、鳩山首相は「市長選の結果は一つの民意として重く受け止めている」と述べた。だが、普天間移設先に関しては「検討委員会の中で議論しているが、県民の負担軽減のために努力したい。(移設先は)5月末までに決める」と述べるにとどめた。平野氏は「(検討委で)できるだけ負担軽減が図られる方法を考えたい」と答えた。

 稲嶺氏は、国会内で民主党の小沢一郎幹事長と会談し、「選挙で争点になり(普天間代替施設を名護市に)造らせないということをもって選挙戦を戦ってきた」と報告。小沢氏から普天間移設への具体的な発言はなかった。

 国土交通省で会談した前原誠司沖縄担当相には、北部振興策から名称を変えた「北部活性化特別振興事業」の継続や2010年度に調査費が計上された鉄軌道の実現を要望。前原氏は「基地問題と沖縄の振興策はリンクさせない」とした上で、鉄軌道については「ぜひ実現できればいい」と話した。


(引用終了)

 以上、最近の沖縄振興について報じた記事を紹介した。

 こうして、日本政府の思考経路と沖縄人の思考経路を読み、沖縄にとっての次善の策を打っていき、日本政府とアメリカの変化を待つという大田戦略は、1996年に確立から12年を経て、ようやく、次の段階に進むことができるようになった。この沖縄の「宗主国への粘り強い抵抗」という事例は、これからの日本の対米戦略を考える際にも、参考となるのではないだろうか。(おわり)

(注)筆者の廣瀬研究員がこの論文で論じた内容は日本の対覇権国の国家戦略への応用が可能である。沖縄を民主党、日本政府を官僚と置きかえてこの大田戦略を援用することも可能である。むしろ、この点が重要だろう。

 沖縄と本土の関係は(日沖関係)は、つまるところ、米日関係と同じなのである。政治家が最初に打ち上げる「マニフェスト」とはつまるところスローガンである。それが100%実現することはほとんどの場合にない。その結果、国民の間には「裏切られた」という思いが出てくることも往々にしてある。マスコミはその政策の失敗を政局と結びつけて論じる。ただし、廣瀬研究員がこの論文で論じたように、重要なのは政治における意思決定者が持っている「優先順位」を理解することである。

 この問題を小沢一郎とアメリカ・官僚の政治闘争に応用する場合、「小沢が全面的にアメリカと闘争した場合のコスト」(徹底的にアメリカが小沢を官僚とマスコミを使って潰す)は非常に高い。その場合、小沢一郎としてはアメリカを懐柔する目的で条件闘争を仕掛けることになる。逆に米日関係の全面的な悪化を恐れるアメリカとしては小沢を懐柔する戦略を選ぶ。それが、ゆうちょ銀行による米国債買いであり、トヨタの問題における技術評価チームに元米運輸長官を入れるという具体的な戦略であると考えられるわけである。亀井静香金融大臣はこの年初に米国を訪問している。この背景には小沢の対米国戦略における優先順位を意識した「生き残り戦略」があったとみるべきだろう。故・中川昭一財務金融大臣が潰されたのは、上記論文の図1における、「沖縄県・反対」の選択行動に相当する行動を露骨に取ったためであると考えられる。

 この「大田戦略」に従えば、属国内が強大な覇権国に対する政策で意見に「適度な分裂」が存在することは前提になっている、ということである。この場合、「3歩進んで2歩下がる」というのが冷酷な現実政治の原理ということになる。

 沖縄において、96年の少女暴行事件の犯人が海兵隊員であったことが如実に示すように、沖縄に置いて一番嫌われているのは海兵隊である。したがって、沖縄が「基地のない沖縄」を目指す場合、まず最初に追い出されるべきは海兵隊、ということになる。海兵隊の移転が終わった場合、次に空軍の移転が政治的な日程として浮上することになる。そもそも沖縄が本土に復帰したのは、占領時に米軍があまりにも沖縄にひどいことをしたというのが第一の理由である。

 さて、廣瀬研究員は論文の「おわりに」において、鳩山政権の誕生で「基地移設反対」を公然と表明できるようになったと書いている。現在、沖縄県知事、県議会、名護市の三者が基地の県内移設に反対している。この三者が揃って反対に回ることはこれまではない事態なのである。自民党橋本政権の時代に同じことが起きれば、総理大臣が普天間の継続利用あるいは名護市のキャンプシュワブ陸上案について「代理署名」を行っていただろう。日本の政権交代、アメリカの太平洋地域におけるプレゼンスの縮小という環境の変化はその意味でも大きかったといえる。(以上、廣瀬研究員に中田が聞き取りした内容をまとめた)

廣瀬哲雄(ひろせてつお)
1972年福島県生まれ。沖縄大学、専修大学大学院卒。専門紙記者、編集者を経て、副島国家戦略研究所(SNSI)研究員。専門は市場原理、特に官僚個人の経済合理性を用いた官僚制分析。主要な論文に『市場原理の導入による官僚制抑制』。『悪魔の用語辞典』『エコロジーという洗脳』(共同執筆者として参加)。

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