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「なぜ原宿は、あんな場所になったのか?(1)」〜国立代々木競技場(渋谷区神南)から代々木公園、原宿にかけて「ワシントン・ハイツ」という、米進駐軍の米兵居住地区があった。 投稿者:根尾 知史 投稿日:2010/03/14(Sun) 02:29:49 No.364 

代々木練兵場のあとに、アメリカ進駐軍(占領軍)の米兵たちが居住するための「ワシントン・ハイツ」という隔離されたアメリカ人居住地区が作られた。アメリカ式の広々とした居住し基地内に大きな洋風住宅が整然と立ち並んでいたという。その敷地は、1964年の東京オリンピックのときに、現在の国立代々木競技場とオリンピック選手村として再整備された。いまは、広い公園のような敷地が、国立競技場として残るだけである。

こうした米軍占領時代のアメリカ文化のショーウィンドウ的な「ワシントン・ハイツ」という米兵居留用の隔離住宅地区が、戦後の廃墟のなか、貧しい掘っ立て小屋で暮らしていた日本国民にとっての憧れの場所であった。

進駐軍が、これ見よがしに、戦後日本で見せ付けたアメリカ式の居住・生活・文化のスタイルが、敗戦ですべてを失い打ちひしがれた日本人の庶民にまぶしく、強烈な印象(憧憬)を焼き付けたのである。

現在の原宿駅付近、明治通り、竹下通り、表参道から青山墓地までの一体は、進駐軍のアメリカ兵とその家族相手の(またはその影響を受けた)店舗が立ち並び、その影響を受けた商業が発達したのだ。

だから、いまの代々木公園の西南にある渋谷区神南の代々木国立競技場から、東側の原宿一体までが、現在まで流行(アメリカがもたらす先進文化)の発信地として、西洋文化(アメリカ式の生活スタイル、ファッション)の優雅な空気を戦後の日本にもたらした発祥の地だったのである。この戦後のアメリカ占領時代のなごりが、渋谷や原宿の気違いじみた華やかさが始まった原因なのである。

もともと、原宿も渋谷も、北は宇都宮のあたりあたりから江戸を抜けて横浜、鎌倉まで続いた鎌倉街道の街道集落(宿場町)として栄え、武家屋敷なども立ち並んでいた場所でもあった。

以下、戦後の原宿近辺をよく知る人の、当時の様子を語った文章を転載する。

(全文転載はじめ)

ワ シ ン ト ン ・ ハ イ ツ が そ こ に あ っ た (1)

代々木公園にかつてあった米軍基地(住宅団地)ワシントンハイツの航空写真。年代は分からないが、かなり整備された後だろう(クリック→拡大してごらんください)。白根記念郷土文化館収集資料から。

 東京都心のあちこちに、進駐軍とも占領軍とも呼ばれていたアメリカ軍の、施設・基地があった時代を知る人が、だんだん少なくなっている。都心最大規模の基地、ワシントン・ハイツは、東京駐留の米軍将校のための住宅団地であった。私にとって身近のものだった、その基地の記憶をたどり、調べてみた。

 親の転任にともない、東京に住むようになったのは、昭和27年(1952)からである。住んだのは、渋谷区代々木本町である。今は元代々木町と町名を変えている。私がそこに住んだのは、大学をおえた昭和33年(1958)までであったが、その後も両親はそこにいたから、そのあたりの変化をずっと見てきた。

 新宿を出た小田急線は、明治神宮の大きな境内の北端をかすめ、広大な代々木の原っぱの西側の縁を半ばまで南下し、そこで大きく曲がって西へ向かう。この屈曲点あたりが代々木八幡駅である。この駅近くを高架で越えている道路が山手通りである。内側の明治通りとともに、かつての東京の環状道路だ。環状5号線と呼ばれていたこともある。

 この山手通りと小田急線に挟まれた小高い丘の上に、代々木八幡神社がある。古くから人が住むのに好適な土地だったのだろう、境内には縄文人の住居跡が見つかり、住居が復元されている。この神社の宮司の家は、作家平岩弓枝の実家である。このお宮と山手通りを隔てて反対側を少し入ったところにあるキリスト教会が私の実家であった。

 ここに住み、学生生活を送った頃は、青春時代のもの思う時期であった。スポーツをせず、友人とわいわい発散することを避け、孤独がちだった私が、勉強に倦み、不安定な青春の気分を持て余した時にやることといえば、このあたりを散歩することしかなかった。 おきまりの散歩コースがあった。代々木八幡神社の階段を登り、左手奥の神殿には向かわず、前を素通りして、隣の福泉寺の階段を東側に降り、すぐ前の小田急線の踏切を渡る。そこから先がワシントン・ハイツだった。高いフェンスに囲まれたワシントン・ハイツと小田急線との間は、参宮橋と渋谷まで、延々とつながる外周道路である。そこを北へ参宮橋方向へ歩く。ほとんど車は通らず、小田急線との間の地所は狭く、住宅も途切れ途切れにしかなかった。明るく開放的な空間は気持ちを明るくしてくれた。

 ワシントン・ハイツの全体の敷地は、明治神宮ー原宿ー渋谷をつなぐ線の方向へ、したがって西から東へ、なだらかに登っている。所々に大きな木がぽつんぽつんとあるほかは、芝生に覆われ、ここ彼処に西洋風の住宅が建っていた。まだ、日本は戦後の窮乏期から抜け出していない時代である。密集して並んだ掘立て小屋に住む日本人の目からは、フェンスの向こうは、まったく別世界に見えた。そこは外国だった。今では想像もつかないだろう。当時はアメリカという存在も、アメリカ人なるものも、われわれの日常と隔絶したものだった。

 全体としてなだらかな敷地が、先ほどの踏切を渡ってすこし行ったところだけ、高くせり出して小高くなっていた。その上に、アメリカンスクールがあった。校舎は丘の終端近くまでせり出していたが、下を通る道からは、生徒達の甲高い声は聞こえても、その姿を見ることはなかった。


ワシントン・ハイツを西方(たぶん代々木八幡神社の丘)から望む。左遠方は住宅団地。右後方がアメリカンスクールの建物。手前は付近の日本人住宅。その間に小田急線の線路が見える。白根記念郷土文化館収集資料から。
 L字形に折れて建てられた校舎に抱えられるようにして、水泳用のプールがあった。これは生徒だけでなく、この住宅団地に住む家族に開放されていたらしく、夏ともなると、家族連れで水浴を楽しむ姿を見ることができた。水着姿ではしゃぐ米人家族の晴れやかで楽しげな様子は、羨望を通り越して、夢の世界に見えた。

 小島信夫が「アメリカンスクール」で、芥川賞を受けたのは、昭和29年下半期である。石原慎太郎の「太陽の季節」の1年前。大江健三郎の「飼育」の3年半前である。この小島の「アメリカンスクール」は、占領時代の日本人の、進駐軍アメリカに対する気分を良く表現している。

 小島が題材にしたアメリカンスクールは、私の知っている代々木のアメリカンスクールでなく、地方都市にもあった同様のものである。中学校の英語教師が、グループでアメリカンスクールを訪問する半日の出来事を、鬱屈した筆致で描いている。生活レベルの違う米人社会に、招き入れられ、あまりの格差におずおずとする様子。米人に卑屈にすり寄る人、英語力を見せびらかして仕切る人。英語をしゃべることに人前で気後れを覚える英語教師、そしてまぶしいほど美しい米国人の女教師。鷹揚に、親切に対応してくれるアメリカ人側。当時の日本人対アメリカ人の雰囲気を実に巧みに描いている。

 中に入ったことはないけれども、そんな世界が、この上のアメリカンスクールにあるのだなと想像しながら、下の道を、とぼとぼと歩いたものだ。前途は見えなかった。しかし、小島が書いた中年教師たちより若いわれわれ世代には、夢があった。

 やがて、ワシントン・ハイツは、東京オリンピックの選手村となった。その一角には、NHKが千代田区内幸町から移ってきて、高い塔屋と大きなホールを造った。その建物が飛び抜けたものと感じなくなるうちに、いつの間にか、アメリカは、そう隔たった存在ではなくなっていた。1974年からほぼ2年、家族連れで滞在したアメリカは、ごく自然と入っていける社会だった。そのとき、かつて隔絶した世界に見えた、あのワシントン・ハイツの中にいる自分を見いだしていた。

 そんな思い出のあるワシントン・ハイツのことを調べてみた。当時の地図、写真、資料などを入手したかった。そのあたりの次第は、次回に書くとして、当時の地図と写真を掲載しておく。


昭和20年ワシントン・ハイツ完成後の付近の地図。緑は明治神宮の森林。下半分中央部がワシントン・ハイツ。現在の地図と比べてみてください。白根記念郷土文化館編集のもの。
 地図は、昭和20年、ワシントン・ハイツが占領軍の要求によって、日本政府の責任と負担のもとに建設された直後のものである。広い敷地に、多数とはいえ、周辺の密集した住宅地とは比べものにならないくらいのゆとりを持って、住宅が配置されているのが分かる。この地図にはないが、その後、参宮橋寄りに、鉄筋アパートが数棟建てられた。このアパートは、選手村用に改装して使用され、さらには、「オリンピック記念国立青少年総合センター」となって残され、中国残留孤児が訪問するたびに宿泊に使われたりした。

 地図で見るワシントン・ハイツの西側やや北寄りに見える大きなL字形の建物が、アメリカンスクールである。私の記憶通りの場所にある。

 写真としては、冒頭に掲げたのが、ワシントン・ハイツのほぼ全容を写した航空写真である。ここには、話題にした、西側の外周道路も、それに沿ってあったアメリカンスクールも写っていない。大きく見える森は、明治神宮。遠くに新宿御苑や神宮球場が見える。

 中ほどに掲げた写真には、アメリカンスクールと思われる建物が手前に写っている。記憶ほどには高い丘の上にあるように見えない。また、その近くにワシントン・ハイツの入り口が開かれていた記憶はない。本文に書いたプールらしきものも見えるが、記憶にあるほど大きなものではない。記憶違いか、あるいはその後改修されたかであろう。これは、私が知っている時代よりずっと前、20年代の前半に撮られた写真だろう。位置からすると、代々木八幡神社のある丘の上から撮られたに違いない。だから私も、この角度でワシントン・ハイツを見ていたのだろう。手前に小田急線の線路らしきものが見える。また、当時の日本人の住んだ家がどの程度のものだったかも、良く写されている。

 【この項目は、長くなりますので、3回に分けて書く予定です。戦前のこの場所のこと、ワシントン・ハイツの撤退した後のこと、この項目の調査の経緯などを書きます。】

(転載終わり)

http://homepage2.nifty.com/aquarian/Tokyo/Tky011028.htm

<参考資料>
ウィキペディア「原宿」「鎌倉街道」
平凡社世界百科事典
東京23区便利情報地図

根尾知史筆

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第一次上海事変の顛末 投稿者:1018 投稿日:2008/10/23(Thu) 00:32:05 No.358 

 歴史・軍事オタクの雑誌に学研の「歴史群像」というのがあって、これで食べられるとは思えないライターの方々が、熱心にご自分の調査結果を語っています。そのNo90の2008年8月号に第一次上海事変の記事があり、ライターの瀬戸利春氏の本意ではないかもしれませんが、戦争が起こるときの、物事の進み具合が興味深いので、抜粋して、報告します。

(引用開始:改行で1行空きは中略を示します。)

 昭和七年一月十八日午後四時ごろ、上海共同租界外にある中国の三友実業社タオル工場付近を通りかかった日蓮宗僧侶五名が、突如、同工場の抗日義勇軍らしき集団の襲撃により殺傷された。満州事変が発生して以来、上海とその付近の中国人の排日運動−中国からすれば愛国運動−は激化していたが、タオル工場で抗日義勇軍が組織されていたのもその現れであった。この事件は、日中双方の感情が爆発寸前という、正に最悪のタイミングで起こったのだ。

 だが正確には、この日本人僧侶殺傷事件は「起こった」のではなく「起こされた」というべきだろう。

 この謀略が明るみに出たのは終戦から一〇年も経った昭和三十一年のことで、謀略を実際に仕組んだ田中隆吉自身が『別冊知性』誌上で発表した手記によるものだった。

 また同じ号の『別冊知性』において、石原完爾らとともに満州事変を起こした花谷少佐も田中の手記を裏付ける手記を発表しているし、さらに「満州事変機密政略日誌」においても、田中謀略の裏がとれる。

 満州を独立させて自己の勢力下に置くことを画策する関東軍としては、国際社会の監視の目を他にそらす必要に迫られることになった。

 この外国の注意をそらす仕事を、板垣征四郎(関東軍参謀長)は上海公使館付武官補佐官の田中隆吉少佐に依頼した。
 
 依頼を受けた田中少佐は、当時の金額で二万円の資金を受け取り、「男装の麗人」として知られた女スパイ・川島芳子(田中の愛人だったとも言われている)を通して中国人を買収、こうして一月十八日に僧侶を殺傷させたのである。

 (1018註:昭和七年の上海事変に遡ってみると)昭和五年、米内光政少将率いる第一遣外艦隊の七〇〇名の陸戦隊が「上海海軍特別陸戦隊」となり、以後、上海に常駐するようになったのである。

 (1018註:僧侶殺傷事件のため)危機が高まる中、海軍は巡洋艦『大井』、水上機母艦『能登呂』、第二水雷戦隊など艦艇を増派、陸戦隊兵力も上海海軍特別陸戦隊に加え、佐世保と呉から九〇〇名を増派、このため陸戦隊兵力は一八〇〇名強にまで増加された。

 上海の欧米人は、中国軍が上海を奪回に来ることを恐れていた。それゆえに、欧米各国の部隊は日本の陸戦隊とともに共同防備計画を立案したのである。この時点では、日本の陸戦隊は租界当局にとっては歓迎すべき存在だったのだ。

 (1018註:僧侶殺傷事件以降の不穏を受けて、一月二八日に戒厳令が布告され、各国部隊は租界の共同防備計画に従って配置につく。)

 この時、日本の陸戦隊だけは、なぜか八時間も遅れて配置に付いた。

 真相はいまだ謎である。

 一月二十八日深夜、ようやく陸戦隊は配置に付こうと行動を開始した。この時、すでに(1018註:中国軍の)第19路軍の兵士が虹口一帯に進入していた。そして日本の受け持ち区域は、租界の防備委員会が決めた租界の北東部の虹口一帯だったのである。問題は、その受け持ち守備範囲が、どうしたものか租界から越境していたことにあった。これは防備委員会の失策といえるのだが、さらにまずいことに、租界当局はこの領域侵害を中国側に伝えていなかった。結果として、日中双方は同じ場所を守ろうとして衝突することになってしまう。日付が変わって二十九日となった深夜、北四川路を行動中の陸戦隊は、突如、銃撃を受けた。これが第一次上海事変の開始となった。

 二十九日に始まった戦闘は次第に拡大し、第19路軍と日本海軍陸戦隊だけでなく、各国の陸戦隊や海兵隊、それに上海義勇軍をも巻き込んだ騒ぎへとエスカレートしていった。

 興味深いのは、日中双方、そして、その他の守備隊のいずれものが、実質的には防御戦を展開していたことである。

 海軍は二十九日早朝から水上機母艦の艦載機による爆撃を開始していた。陸戦隊という身内の危機であるだけに海軍の行動は迅速で、二月一日には空母『加賀』『鳳翔』以下の第一航空戦隊、軽巡以下の第三艦隊が投入され、陸戦隊一〇〇〇名も増援として上海に送り込まれた。前述の海軍の準備が功を奏したわけだ。

 二月一日には、ついに現地の海軍部隊から、次いで重光公使から陸軍派遣要請が出された。重光は劣勢な海軍陸戦隊が意地になって、最後には在留邦人を悲惨な状態に追い込むことを懸念し、陸軍派遣を要請したのであった。

 翌二月二日の閣議で牧野内大臣や高橋蔵相の出兵反対、居留民引き揚げ論を押しのけ、− 外相が荒木陸相から任務外の行動は取らないという確約を得た上で − 陸軍派遣が決定されたのである。

 (1018註:二月十四日に陸軍の第九師団他が上海に上陸)上海の日本軍戦力は陸戦隊を含めて一七〇〇〇名に膨れあがった。

 (1018註:二月二十日に日本側が攻撃を開始し)ともかく、日本軍の攻撃開始によって、上海事変は事変性の強い「上海市街戦」から、本格的な陸軍作戦である「上海会戦」への移行することになったのである。

 (1018註:攻撃したが突破ができず)弾薬も不足し始め、海軍から銃砲弾の供給を受けて急場しのぐ状況となっていた。(中略)たかだか三〇〇〇名程度の陸戦隊しか持っていなかった海軍が、なぜこれほどの弾薬を保有していたのかは謎だ。

 二月二八日、英海軍のケリー大将が斡旋した日中非公式会議が行われていた。英側の目的は日本軍の南京への爆撃を回避することにあったが、ともかくも野村司令長官と松岡洋右(のちの外相)が中国側と非公式に折衝して、一応の撤退了解案をまとめていた。実はこの了解案は松岡が陸軍に無断で決定したもので、秘密とされていたが、英側がうっかり公表したため、問題を厄介なものとした。ジュネーブの国連では停戦への期待が高まったが、何も知らされていない陸軍は、松岡が本国から回訓を待つ間に第三次総攻撃に踏み切ってしまうのである。その結果、了解案を出していながら総攻撃を敢行した日本は、国際社会を裏切る形となり、ますます孤立することになる。

 三月三日、日本軍は先に植田中将が中国軍に提案した撤兵要求線まで進出し、さらに二日には呉淞砲台も占領していた。

 目的を達したと判断した白川軍司令官は、三日午後二時に戦闘中止の声明を発した。上海会戦はここに終結したのである。

 以後も停戦交渉は進められ、五月五日に停戦協定が成立した。

 事変終了後、海軍陸戦隊の間で奇妙な噂が流れた。「田中少佐の謀略に踊らされた」「植松陸戦隊司令官が田中少佐を激しく面責した」「田中少佐は坊主になる気持ちで平身低頭して許しを乞うた」などと海軍の少壮士官はささやいたという(東郷114号「第一次上海事変の裏話など」)。

 国家レベルで見たとき、上海事変は日本を孤立させ、その命運を危ういものにした出来事だったのである。

(以上、引用終わり)

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岡田英弘先生の新刊書の紹介について 投稿者:ワーカーズの直 投稿日:2008/06/05(Thu) 05:53:26 No.357 

六月三日の「毎日新聞」の第二面下部に、「岡田英弘の本 厄介な隣人、中国人 最新刊 この厄介な国、中国 改訂版」の二冊の広告が掲載されておりました。

最近投稿記事がないようなので、書いてみました。

以上

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著者紹介へ書名日本史の誕生著者岡田英弘
出版社弓立社シリーズ名叢書 日本再考
発行年月日1994年10月31日ISBN4-89667-466-9
総頁数254頁価格2800円
目次序章 日本の歴史をどう見るか
第一部 倭国は中国世界の一部だった
第二部 日本は外圧のもとに成立した
付録 〈対談〉邪馬台国と倭国 VS大林太良
在庫状況サイト内にて頒布致しております

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