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『文藝春秋』99年6月号から貼り付け(貼り付け開始)
新進党を破壊、自民党に侵入
「公明党ウイルス」の研究
キャスティングボートは嘘だ。
公明党と手を結んだ政党には、破滅が待っている遠藤浩一(評論家)
平和、栄光、勝利
「青、黄、赤って、信号みたいじゃないですか。創価学会との関係って言われたってねえ……、そんな意味があるなんて、全然知らなかったし、深く考えてもいなかった」
洋品店の老店主は、当惑した表情で重い口を開けた。
「前も同じようなことを言われたことがある。青、黄、赤ってのは、学会の色じゃないかって。このへんはね、学会員が多いんです。その分、学会に反感を持っている人も多い。そういう人から言われたんだけど、まさかこれが創価学会の色だなんてね」東京下町の、とある商店街。
その入り口に聳え立つアーケードは、青、黄、赤の三色に彩られている。実はこれ、「学会三色旗」(ルーマニア国旗とまったく同じ)の配色そのままなのである。商店街トップが学会員で、職権を利用して街の入り口を「学会色」に染め上げたんじゃないか、僕たちは、そう勘繰った。
商店街の理事長を務めてきた老主人は、顔を紅潮させた。
「冗談じゃないよ。私は創価学会も公明党も好きじゃない。地域復興券だって頭にきてるしね。このデザインは、よその商店街を真似たんです。私1人で決めたわけじゃありませんよ。赤、青、黄なんて誰でも使う色じゃないですか。知らず知らずに使ったら、それが創価学会の色だなんて、嫌だね……」とうやら、この商店街のアーケードが、意図的に「学会色」に塗られたわけではなさそうである。しかし、気が付いたらいつのまにか「学会色」になっていた。ここがミソである。そういう例は、他にもありそうだ。同じ三色の虹をシンボルマークにしている企業もある。どうしたって学会との関係を云々される。企業にとっては迷惑な話だが、自分たちの「色」を思わぬところで発見した創価学会員は、それを広宣流布の成果と受け止める。
「三原色なんて、誰でも使う色ですからね。学会との関係を勘繰られるのは、うちにとっても迷惑な話なんです」と、ある創価学会幹部は苦笑してみせるが、言葉とは裏腹に、その顔はまんざらでもなさそうである。もともとこの三色旗は池田大作名誉会長の発案で、それぞれ、平和、栄光、勝利を表しているのだそうな。甲子園に創価高校が出場したとき、この学会三色旗がアルプススタンドを埋め尽くしたのをご記憶の向きも多かろう。甲子園のスタンドを、出場校のシンボルカラーが埋め尽くすのは微笑ましい光景ではあるが、意図的であるにせよ、ないにせよ、街中が特定の宗教団体の配色で徐々に埋まっていくのは、あまり気持のいいものではない。しかし現にいま、この3つの色は、さまざまに形を変えて、創価学会の勢力の強い街を覆いつつある。
街往く人々の目に
4月中旬、別の商店街を歩く、折しも統一地方選挙直前のこととて、街のそこここに演説会の告知に事寄せた事前ポスターが貼られている。
平成6年の公職選挙法改正によって、いわゆる事前ポスターのたぐいは全面的に禁止された筈だが、そこはそれ、選挙のプロはすぐさま抜け道を見付け出す。候補者個人のポスターが駄目でも、政党や政治団体主催の演説会の告知ならよかろうというわけで、政党幹部と候補者の名前を列記したポスターが街中に貼られるようになった。法改正もなんのその、以前同様、いや、前以上に底意が見え見えで、悪趣味のポスターが氾濫している。
中でも、毒々しさにおいて際立っているのが、公明党のそれである。例の配色、すなわち黄地に赤と青で大書きされた党名と候補者名は、この街でもひときわ目立つ。
目立てばいいというものでもなかろうに、というのは素人の発想で、選挙ではまず候補者名を売り込むことが肝要。そのためには原色剥き出しで執拗にアピールすることに疑問を感じてはならない。趣味がどうの、センスがこうのなどとは言っていられない。そういうデリカシーや羞恥心の持ち主は、そもそも選挙に打って出る資格はないのである。ポスターの配色から投票確認にいたるまで、選挙活動における執拗さ、臆面の無さにおいて、公明党=創価学会は他党を凌駕している。
選挙ポスターだけではない。公明党のポスターを貼ってあるのが、例えば商店だとしよう。その店の看板には青、黄、赤の三色のラインがくっきりと浮かび上がってる。あるいは普通の民家ならば、三色に塗りたくった風車が軒先で回っているという塩梅だ。そして、三色旗に「地域復興券取扱店」と刷り込み、入り口に掲げている店もある。無論その店の壁には公明党のポスターが張り出されている。
三色旗、地域復興券、公明党ポスターとくれば、あまりにも出来すぎた組み合せだが、現に先月までは東京の(おそらく全国の)あちこちで、そういった臆面の無い組み合せが、街往く人々の目に否応なく飛び込んで来たのである。「大衆には三度同じことを言え」と言ったのはヒトラーだったが、往く先々で三色の意匠を見せ付けれると、しだいに違和感がなくなってくるから、不思議だ。
もっとも創価学会本部として、三色旗を掲げるよう指導しているわけではないらしい。むしろ逆に、選挙期間中は非学会員の反発を恐れて三色旗を極力出さないよう指導する地域さえあるという。おそらく看板のラインや地域復興券の旗は、学会員の忠誠心の自発的な発露なのだろう。人々が、刷り込まれた意見を自発的に表明するようになったときがプロパガンダの完成だというが、学会員が自発的に、競うように三色の意匠を掲げるのは、創価学会におけるプロパガンダの完成を意味する。ヒトラーは「政党の強さというものは、ここの党員の、豊かで独立した知性にあるのではなく、むしろ規律ある忠誠心にある」とも言った。なるほど公明党=創価学会という勢力が組織として強靭なのも首肯ける。創価学会が「規律ある忠誠心」にあふれた人々によって構成されているというのは、宗教団体としては、まことに結構なことである。外部からとやかく言う話ではない。
しかし、そのプロパガンダの延長線上に地域復興券がぶらさがっているとなると、話は別である。特定の教団内部の信仰の問題を越えて、政治と宗教の同一化、端的に言えば政治が宗教に利用されるという、「創価学会=公明党」にとっては古くて新しい問題が浮かび上がってくるからである。
「天下の愚策」に胸を張る
公明党は今、「我が世の春」を謳歌している。それはすなわち創価学会の「春」である。まさかというようなことも実現してしまう。
経済学者やエコノミストが「真面目に論ずる価値もない」と黙殺し、当の公明(当時は「平和・改革」)内部でも「経済オンチと言われるんじゃないか」と懸念の声が上がった商品券=地域復興券は、参院選で大敗した自民党と参議院でキャスティングボートを握る公明党との談合によって、あれよあれよという間に実現してしまった。後で議事録から削除されてしまったが、管直人民主党代表が衆議院本会議で言った「7千億円の国会対策費」という指摘は正鵠を射ている。
経済効果もさっぱり、交付対象が限定されていて不公平、教育上もよろしくないということで悪評芬芬の「天下の愚策」であるが、実現の立役者を自負する公明党は大はしゃぎである。機関紙『公明クラブ』をめくってみると、「待ちに待った『地域復興券』交付がスタート!」とか「地域復興券で街にうるおい家庭に笑顔」といった活字が目に飛び込んでくる。子供を抱き、振興券を掲げてニンマリ笑う主婦の写真にゲンナリさせられるのは、僕だけではあるまい。浜四津敏子代表代行は全国で最も早く交付した島根県浜田市に乗り込んで「政策実現の公明党」をアピールした。いかにもサクラっぽいオバさんが浜四津女史を取り囲んでキャーキャー騒いでいた。これまたゲンナリである。
自民党にとっては国会対策、公明党にとっては選挙対策の地域復興券は、しかし当の公明党が恃みにする中高年年齢の主婦層には存外不評である。彼女たちのほとんどは、その恩恵に浴することができないからである。神奈川県のスーパーで、パートで働く主婦は言う。
「そりゃ、不公平だから、みんな怒っていますよ。(パートの同僚に)学会員の人もいるんですけど、話題が、“商品券”のことになると、なんかコソコソしてね、どこかにいなくなっちゃうの。いつも選挙になるとしつこく言ってくるのに、今年は静かね。“商品券”のことがあるからじゃないかしら」そういう反発があることを知ってか知らずか、「地域復興券は公明党が自民党と交渉して勝ち取った成果だ」と、神崎武法公明党代表は胸を張る。
「経済効果についていろいろ言われていますが、消費も動きはじめているし、景気も下げどまり感が出てきている。効果はあると思っています」神崎は景気に下げ止まり感が出てきたのは景気復興券のおかげだと自賛するが、こういう牽強付会気味の分析よりも、街の商店主の直感の方が鋭い。あらぬ疑いをかけられた先の老洋品店主は、
「恩恵を受けてる人は稀だね。私らのように店をやって、税金を納めている者は、65歳以上でも貰えない。景気回復に効果があるとも思えないね。だいたい煙草とかコメとか、ふだん現金で買うものに、“商品券”を使ってるだけだからね」と、商売する側の実感を語る。スーパーやデパートなど流通業界も総じて同じような見方だ。ある銀行が実施したアンケート調査によると、およそ6割の人が景気対策として有効とは考えていないと回答している。
世間の醒めた雰囲気と比べると、公明党のはしゃぎぶりは異様である。周囲がいくら白けていようと構わない、ひたすら、自画自賛する。いったい彼らは、誰に向かって成果を誇示しているのだろうか?
創価学会は戦後日本の縮図
かつて新進党で公明党議員と一緒に活動した扇千景(参議院議員・現自由党)は、
「(旧公明党の議員は)鵜飼いの鵜と同じで、何かヒモで引っ張られていて、政治家として自分自身の意見を述べるということをしなかった」と述懐する。「小沢一郎党首が『これで行こう』と言えば、彼らは黙ってしまうんです。安全保障問題についても、正面切った反対はあまりありませんでした。むしろどちらかと言えば、天下国家や防衛の問題は避ける傾向がありました。ただ、福祉とか消費税とか、日常生活にかかわる問題については、細かい注文がありましたね。そういう点で、やや迎合政治的な印象は否めませんでした」
「絶対平和主義」の創価学会婦人部の影響で、公明議員は新進党の安全保障政策の足を引っ張ってきたのではないか、と僕は思っていたのだが、そうでもないらしい。彼らは無関心ないしは及び腰だったという。むしろ、「『日本再構築宣言』について徹底的に論議した結果、新進党で初当選してきた公明党の若手議員の中には、政策面で自由党の考えに近い人が何人もいる」と扇は言う。
「その人たちは、新進党時代の方が良かったと言っています」扇が鋭く指摘する公明系議員は「迎合政治的」なところこそ、創価学会の本質に直結している。「弱者保護」と言えば聞こえはいいが、地域復興券をはじめとして、2兆円減税、児童手当ての拡充、乳幼児医療費の無料化といった公明党の政策は、はっきり言って「バラまき」である。世間的にはバラまきであっても、創価学会にとっては、これらの政策は現世利益の実現にほかならない。そう、公明党は、創価学会の教義の中核に位置する現世利益を体現するために政治機関なのである。
牧口常三郎創価学会初代会長は、「真・善・美」の「真」を「利」に置き換え、順序を入れ換え、「美・利・善」として、現世利益追求の大事を説いた。特に戦後の復興期には、富の配分から取り残された人々が学会に吸い込まれていった。もちろん宗教には求道的な側面と同時に救済機能がある。とりわけ日本の仏教は伝統的に後者を重視してきた。だから、仏教の信仰団体が現世利益の追求を説くのはなんら奇異なことではない。また、戦後の新興宗教は総じて現世利益を餌に信者を勧誘しており、この点において創価学会だけが異質なわけでもない。いや、戦後の日本人は老若男女を問わず、金持ちも貧乏人も、エリートも大衆も、国を挙げて“現世利益”を追い求めてきた。ある意味で、創価学会は戦後日本の縮図と言えるかもしれない。
創価学会が他の宗教団体と決定的に違うのは、公明党を結成し政治に進出することによって、政策という形で現世利益を実体化し、それを主として社会的弱者(創価学会に圧倒的に多い層)に対して再配分してきたことである。
言うまでもなく、社会的弱者の救済は政治の重要な役割であり、それを主張する政党は評価の対象にはなっても非難の対象になりえない。しかし、公明党の場合、その政治的実績が創価学会の宗教的功徳にすり替えられてしまう。ここに問題がある。
良い国民と悪い国民がある
現役の学会員でありながら、公明党と創価学会の政教一致構造を厳しく批判する前板橋区議の高田明は「多くの学会員は地域復興券を学会の功徳と受け取るんです」と指摘する。もちろん地域復興券の財源は税金であり、国債である。創価学会が自腹を切っているわけではない。にもかかわらず、学会員はそれを「創価学会の功徳」と受け取る。
「創価学会自身が、そう言うわけじゃありません。でも学会員はいつのまにかそう思い込むようになるんです」それはそうだろう。神崎や浜四津があれだけ笛太鼓で騒ぎ立てれば、彼らを国会議員にし、党の代表や代表代行にした学会(=池田名誉会長)による功徳と学会員が信じ込んでも、不思議はない。ましてや、街には、「地域復興券取扱店」と書き込まれた「学会三色旗」がはためいている。ここに「宗教に奉仕する政治」「学会員のための公明党」という構図が明瞭に浮かび上がってくる。
高田は、区会議員に当選した直後に公明党本部の「御本尊のある部屋」で開かれた会合で、現学会会長の秋谷栄之助から「国民にも良い国民と悪い国民がある。日本の国を良くするのは学会員だけだ、分かるな」と言われて驚いたという。
「学会員を守ることが国民のためになるんだ、と言うんですね。私は、国民のため、住民のためと言って当選してきた。ところが最大の支援団体である学会の幹部から、学会員のために政治をやれと言われた。正直言って、悩みました」
「学会員のための政治」とはいかにも創価学会の本音が出ている言い回しで、いまさら驚くに値しないが、政教分離という建前からすると、由々しい発言ではある。僕は、野崎勲(創価学会副会長・政治担当)にそのことを質してみた。
「それはたぶん、創価学会には熱心に支援してくれた人々がいるんだから、その人たちへの感謝を忘れちゃいけないよ、ということを言っているんですよ。議員の中には、時々、選挙のときだけ学会員を利用して、自分の利益を追求するようなのが出てきますからね」という答えが返ってきた。しかしこの弁解には、あまり説得力はない。学会の場合、やはり「議員は国民に奉仕すべし」ではなく、「議員は学会員に奉仕すべし」ではないのか。かつて秋谷は、雑誌のインタビューで「幹部は会員に奉仕する立場だ」という池田の発言を紹介したことがある(『別冊宝島』225号)。このとき秋谷は、幹部が権威主義的になるのを戒めた言葉だと説明したのだが、幹部も議員も学会員の下僕だと言っているようにも受け取れる。有名な池田の「デェージンは学会員の部下」という発言も、国会議員の思い上りへの戒めというよりは、むしろ国家の上に宗教を置く池田や創価学会の傲慢のあらわれと感じられる。「学会員のために政治をやれと秋谷に言われた」という高田の証言は、これらの発言と照合すると、さもありなんと思われる。
計画的な住民票の移動
こういう、宗教と政治の歪な関係の根本にあるのは、「王仏冥合」という、創価学会独特の思想である。
王仏冥合の達成――端的に言えば現世利益の追求を政治的に実現するために、創価学会は政治に積極的に参加するようにった。
昭和29年、学会本部に文化部を設置すると、そこを拠点として、「選挙戦こそ法戦場」という指導のもと、本格的な政治参加が始まった。昭和30年の統一地方選挙で初めて都議1、市議20、区議32人を当選させると、翌31年の参議院選挙では全国区2、地方区1を当選させ、国会進出を果たした。やがて院内交渉団体の公明会、公明政治連盟を経て、昭和39年、「王仏冥合・仏法民主主義」を基本理念として公明党が発足する。発足当時の公明党は名実ともに政教一致で、公明党首脳は学会幹部を兼務していたし、池田大作会長自身「1人の人間について宗教の面から見れば創価学会員であり、政治の面から見れば公明党員であります」と明言し、「国立戒壇建立」を打ちあげた。企図するところは日蓮正宗の国教化である。
しかし昭和44年に言論出版妨害事件を起こし、政教一致体質が厳しく批判されると、学会と党の兼職を解くなど政教分離方針に転じた。同時に綱領を改正し、「王仏冥合」や「仏法民主主義」等の文言も消えた。以後たびたび本当に政教分離しているかどうかが問題になるが、建前としては、あくまでも「党は党、学会は学会」ということになっている。しかし、公明党はともかく、創価学会が王仏冥合という理念を放棄したとは到底考えられない。
ところで池田は、昭和31年の参院選と、翌32年に行われた参院大阪選挙区補欠選挙で選挙責任者を務めたが、ともに選挙違反者を出し、32年には池田自身が公職選挙法違反容疑で逮捕されている。結局裁判で無罪になったものの、組織的に違反者を出したという事実は残る。これは戸別訪問を折伏と同一視し、「国法を守ることが王仏冥合達成を阻害する場合、当然、これは破られなければならない」とした当時の指導の影響によるものだろう。後に言論出版妨害事件を引き起こしたり、あるいは対立候補に対して暴力的な選挙妨害をするといったことを平気でやってのけたのも、この思想と体質に起因している。
もっとも最近は、こういう露骨な指導も影をひそめているようだが、違法すれすれの選挙運動は相変わらずのようで、学会の本質が変わったかどうかは、ここでも疑問だ。例えば手元にある学会の内部文書には、「○○町○○丁目地区連れ出し」という名簿や、何日までに転入すれば投票資格が生じるといったことを細かく記した「有権者の投票資格について」という注意書きがある。これらの文書は、組織的に有権者を投票所に連れ出したり、投票日に合わせて計画的に住民票の移動を行ったりしていることを暗示している。もしこういう行為を実際に行われているとすれば、間違いなく公選挙法に抵触する。相変わらず、目的のためには手段を選ばないという思想と、それを実践する体質に変わりはなさそうである。
公明党よ、解党せよ
さて、公明党は形式的には「王仏冥合」を引っ込めている。しかし、創価学会との不即不離の関係が続いている以上、懐深くこの思想を抱いていることは疑いない。それは先の野崎の「支援してくれた学会員への感謝を忘れてはいけない」という発言と、〈なぜ宗教団体がここまで深く政治にコミットするのか〉という僕の質問に対する以下の答えを聞けば、おのずと明らかになる。
「日蓮仏法は法華経の精神に基づき、正しい宗教を立てて国を安んじることを説いています。信仰者は自分の幸せだけを願うんじゃない。内面だけに閉じこもっていてもいけない。他者の幸せ、社会の平和・福祉に関心を持ち、それを実際に社会的に反映させるのが信仰の実践である―という日蓮仏法の本義に基づくと、地域社会への関わり、政治参加は当然ということになる」(野崎副会長)宗教団体の政治参加それ自体はいい。野崎は「ドグマを押しつけちゃいけないが、普遍化できる仏教理念を政治に反映させていくことは大事だ」というが、これも結構だ。しかし創価学会はその場合、他の宗教団体がしているように、創価学会以外の政治家を通じて「社会の平和・福祉」を実現するのではなく、あくまでも創価学会員の候補者を選挙で当選させ、公明党議員として活動させることによってその目的を果たそうとする。しかも「学会によって当選させてもらった恩を忘れなさんなよ」と釘を刺す。その背後には、明らかにドグマの圧力がある。つまりこれは、政治家を完全に創価学会の影響下に置きたいという意思の表れであり、為政者と仏教者の一致すなわち王仏冥合の実践にほかならない。要するに創価学会が公明党への一党支持を続けるかぎり、また公明党がそれを受け入れるかぎり、要するに公明党という政党が存在するかぎり、王仏冥合は行き続けるのである。そして王仏冥合思想は、政教分離の原理と原理的に対立する。
法華経研究者としても知られる元民社党委員長の塚本三郎は「創価学会の王仏冥合論は日蓮上人の教えの履き違い」と指摘する。
「日蓮上人は『法王冥合』すなわち仏法の教義と国家の政策としての融合を説いた。しかし創価学会の『王仏冥合』は為政者(王)と仏教指導者(仏)との一致で、これは宗教の役割と政治の果たす使命とを区分し、両者のあるべき関係を明らかにした日蓮上人の教えの履き違いだ。お釈迦さまは王子の位を捨てて、一修行者としての道を選びました。そこに創価学会の間違いがあるんです」
J・F・ケネディが民主党候補として大統領選挙に出ようというとき、少数派のカトリックであることが何かと議論になった。これに対してケネディは「カトリックでも共和党支持者なら共和党に投票してほしい」と言っている。政教分離とはこういうことだろう。野崎は「学会の教義を広めるために政治に出ているわけではありませんし、政治家はあくまでも国民のために尽くしてもらいたい」と言う。その言やよし。ならば、創価学会員でも自民党支持者には自民党に投票する自由を、民主党支持者には民主党に投票する自由を認めるのが筋である。しかし、公明党という政党を抱えるかぎり、そういう自由はありえない。もし本気で政教分離を実現しようというのならば、それにはまず、公明党を解散しなければならない。
いかにも政教分離を主張しようとも、現実に創価学会と公明党は一体である。創価学会においては選挙運動が宗教活動と密接に関わっている。むしろ宗教活動の一環として選挙活動が行われていると言ったほうがいい。3年に1回の参議院選挙と4年に1回の統一地方選挙が宗教活動にしっかり組み込まれている。だから熱心な活動家になればなるほど、勤行会や聖教新聞の勧誘、財務と学会活動と選挙活動を一体化させた日程表を作って、地域を精力的に動き回る。
かつて学会は、「投票依頼には折伏と同じ功徳がある」と学会員を駆り立てたが、今も宗教的エネルギーを選挙に集中させるというメカニズムに変わりはない。選挙こそ広宣流布の有効な手段であり、それに参加すれば人間革命ができて、根本的な幸福が得られるという教えは一貫している。選挙も終盤になると、秋谷会長以下幹部連名のメッセージが地区幹部や活動家に送られる。そこには「最後の瞬間まで、1人立つ勇者の戦いで、金の勝利を勝ち取ろう」だの「いよいよ、広布決戦の日を迎えました」だのといった文句が踊っている。まさに「金を勝ち取るための広布決戦」なのである。かくして学会員はますます奮い立つ。
なぜ彼らは、そこまで熱心に選挙をやるのか?
その背景は現世利益の獲得であり、王仏冥合思想だが、階層によってモティーフは多少異なる。末端の活動家は同じ学会員の候補者を当選させたいという仲間意識や功徳を積みたいという純粋な動機で活動する。あるいは地獄に落ちたくないという恐怖もあるかもしれない。地区の幹部クラスになると、そこに幹部間の成績争いのようなメンタリティが加わる。また選挙活動に参加させることによって寝ている学会員を起こし、組織を活性化させるという狙いもあるだろう。
しかしこれが組織全体となると、もう少し現実的な理由になる。
「創価学会が決して選挙から手を引けないのは、政治参加が利権化しているからですよ。公営住宅への入居とか生活保護といった便宜供与を公明党議員にやらせ、それを強勢拡大に利用している。そうして大きくなってきた団体だから、いまさら選挙から手を引くことはできないんです」(元学会員)こうして、選挙と一体化していくうちに、創価学会は日本でも有数の選挙のプロ集団として他組織を圧倒していく。
基礎票775万の神話
確かに創価学会は、選挙に強い。ある学会活動家は「票読みをしても、だいたい外れたことはない」と豪語する。「よその国会議員クラスよりもうちの地区・ブロック長クラスの方が、よほど選挙のことをよく知っている」(創価学会幹部)と自負する声もある。他のどの組織よりも機動的で、集票能力が高いというのは、おそらくその通りだろう。組織的に動き、地を這うようにして票を掻き集めた結果、昨夏の参議院比例区選挙で775万票を得た。
創価学会の集票能力の高さ、確実さは、信仰を背景とした学会員の貪欲かつ執拗な活動によって支えられている。例えば他党がやらないこと、やれないことを平気でやる。自民党や民主党は共産党のポスターが貼られている家は共産党支持だと思って最初から忌避するが(自分の後援者の家に貼らせてもらうのが精一杯だろう)、学会員は共産党と基盤が重なっていることもあって、平気で頼み込み、貼ってしまう。またあらゆる縁故を辿って投票日当日まで執拗に投票依頼、投票確認をする。もちろん集会や座談会等への動員にも熱心だし、動員された人の投票率も他と比べて高い。投票所への連れ出し、住民票の移動など違法性が指摘されることも厭わないといわれる。ビラや選挙はがき、街頭宣伝のマニュアルといった選挙器材もキメ細かく工夫されている。組織としての意思統一にも時間と労力を惜しみなく割く、昨夏の参院選で、公明党=創価学会の支援を受けて当選した浜田卓二郎(埼玉・無所属)夫人・麻記子はこう証言する。
「政策にしても、候補者の推薦についても、下から上まで議論をまとめていく努力はたいへんなものです。創価学会は善良な人間集団です。周到な準備と、根気強い合意形成の上で候補者への支援を決める」文字通り地べたを這いずり回って票を掻き集める。それが学会選挙の強さだ。ところが、ここに神話が生じる。「創価学会は組織選挙をする→参院選比例区で過去最高の775万票集めた→775万票を右から左に動かせる」という神話である。先の東京都知事選挙でも、創価学会の基礎票は70万票から80万票とも言われ、それがどう動くかということがしきりに議論された。ところが、いわゆる「基礎票」なるものの根拠は、必ずしも明確ではない。
はっきりしているのは、比例区の775万票という得票は、全国で150万人いると言われている中核的な活動家が必死で集めた票であり、これをもって「基礎票」とは言えないということである。学会選挙は地道な努力の積み重ねだから、とにかく時間がかかる。だから日程が決まっている参議院選挙や統一地方選挙では強さを発揮するが、ハプニング解散やダブル選挙になると一転脆さを露呈する。よく「学会票は一晩で引っ繰り返る」と言われるが、号令一下右から左に、左から右に移動できる票はせいぜい中核的な活動家150万程度で、彼らが運動して集めた票までが右から左に簡単に動くことはありえない。
さらに言えば、学会員の選挙への熱意を支えるのは信仰であり、候補者本人が学会員がどうかで運動にもかなり温度差が出てくる。活動家が、いわゆる「F(票)獲り」(寝ている学会員や知人・友人に働き掛けて票を獲得すること)をするのは、公明党候補(学会員)と比例区選挙だけで、他党・無所属の推薦候補のために「F獲り」まですることは、まずないと言われる。首長選挙などで動向が注目される「基礎票」の実態は、活動家プラスアルファ程度と見るべきだろう。
先月の東京都知事選挙でも、公明・学会票の行方に興味が集まったが、取り沙汰された「基礎票70万」というのは、実態とかけ離れている。神崎公明党代表は「明石康候補の得票のうち40万以上、鳩山邦夫候補の10万弱は公明票」と見る。合計50万票の公明票が動いたというわけだが、これもかなり多めの見積りと言わなければならない。学会の「基礎票」なるものは、巷間言われるほど大きなものでも堅いものでもない。
もうひとつ見落とせないのは、公明党以外の政党、とりわけ保守党にとって、公明党(創価学会)との選挙協力は、必ずしも足し算にはならないということである。1足す1は2にならないどころか、場合によっては1以下になってします。信仰を共有しない候補者に対する学会員の熱意がそれほどではないということもあるし、何より保守票が割れてしまう。今回の都知事選がいい例だろう。この選挙の隠れた、しかし主たる争点は、公明党=創価学会に振り回される政治の是非を問うことだった。保守票の大部分はそれに「ノー」を突き付けた。公明党=創価学会が票を流した明石康(69万票)と鳩山邦夫(85万)の得票を合計しても、石原慎太郎(166万)に及ばなかった。それが、すべてを物語っている。「“公明党候補”の明石を応援すれば、立正佼成会や霊友会など他の宗教団体が反発する。だから本部がいくら明石をやれと言っても、佼成会や霊友会の応援を受けている自民党都議や区議は身動きがとれなかった」と自民党関係者は言う。そして自民党は公明党とともに敗れた。学会票は高くつく。学会選挙恐るるに足らず。平成8年の総選挙でも、創価学会の支援を受けて強力と見られていた新進党の保守系候補が結局競り敗けたという例が少なくなかった。ここでも保守票が逃げて行った。
もちろん中核的な活動家150万人が全国3百の小選挙区に散れば1選挙区あたり5千人になるわけで、この動向は十分注意しなければならない。また学会が敵にまわることを極度に恐れる候補者もいる。決して過小評価してはならない。しかし過大に評価するのも禁物だろう。なぜなら、過大に評価された学会票はいつのまにか独り歩きをはじめ、「適正価格」を越えた高値で取り引きされることになるからである。
池田喚問の苦い経験
公明党の鼻息が荒い。地域復興券や児童手当拡充で自民党との合意を成立させ、ガイドライン関連法案の審議ではいいようにかき回している。神崎代表は「公明党が反対すると、すべての法案が吹っ飛ぶという状況が続いている。この状況は今後6年から9年は続く」(都内での講演)と豪語し、
「(法相は)自ら出処進退を決めるか、更迭するかという問題ではないか」という冬柴鐵三幹事長の一声で、中村正三郎法相は辞任に追い込まれた。自民党幹部は「泣く子と公明党には勝てない」と、自嘲気味に呟く。ここまで公明党の発言力が増したのは、自自連立与党の議席が参議院で10議席足りないからである。したがって神崎が言うように、今後6年ないし9年は、公明党がキャスティングボートを握る状況が否応なく続く。要するに「現世利益」を実現しやすい環境が続くということである。
しかし逆に言えば、公明党が自らを高く売り込めるのは、この6、7年しかないということでもある。公明党をめぐる状況は決して安穏なものではない。小選挙区・比例代表並立制のもとで解散・総選挙を断行されたら、小選挙区でほぼ壊滅、全体として半減以下になるのは必定である。そこで中選挙区制復活という策謀が蠢き始めるわけだが、これも実現の可能性はかなり低い。確かに野中広務や加藤紘一など、自民党内にも中選挙区制復活論者はいるにはいる。しかし決して大勢にはなっていない。むしろ「同一選挙区で2人も候補者を立てる苦労は、2度としたくない」という声が圧倒的に強い。中選挙区制論者の梶山静六まで「覆水盆に返らずだ」と中選挙区制復活が難しいことを認めている。政権交代の機をうかがう民主党は中選挙区制復活には反対だし、自由党も同様だ。公明党は孤立している。
そうすると、どうしたって小選挙区・比例代表並立制のもとで生き残る道を模索せざるをえなくなる。ここで取り沙汰されるのが、自民党に擦り寄り、自自公あるいは自公路線を模索するという選択肢だが、各選挙区を見わたすと、自民党・自由党連合で3百小選挙区は埋まっており、公明党が割り込む余地はない。白川勝彦(自由民主党団体総局長)は、「どんな連立も選挙協力が成功しなければ破綻する。自自はもともと同根だがら、1回か2回選挙をやれば、1つの塊になれる。しかしそこに創価学会が入ってくることはできないだろう。自民党や自由党の代議士後援会に創価学会が違和感なく溶け込むことはできないでしょうね。選挙協力が思うように進まず、また、1つの政党として発展する可能性の薄い自自公ないし自公連立というのはありえません」と断言する。
とすると、民主党との選挙協力を進め、野党として自民党と対峙する道を選ぶしかないということになる。現に公明党現職がいる小選挙区の7割は、民主党空白区である。というより、民主党が空けて待っている。選挙区事情を見るかぎり野党間の選挙協力の可能性が高いように見える。しかし新進党時代に自民党と対決した挙句、「池田大作名誉会長の国会喚問」を突きつけられてしまったという苦い経験を、創価学会は忘れていない。自民党と正面から対決するのはなんとか避けたいというのが本音だ。民主党との付き合いもほどほどにしたいところだろう。
ウイルスに感染した自民党
結局野党ではなく、与党でもない、きわめて曖昧な立場で参議院と地方の議席を守り、小選挙区については、自民党でも民主党でもなるべく高く買ってくれる方に学会票を売るしかないということになる。しかし白川は「二股膏薬は通らない」と、匕首を突き付ける。
「創価学会を友好団体とみなすかどうかは、野党との激突区で自民党候補を応援してくれるかどうかにかかっている。この選挙区では自民党候補、あの選挙区では民主党候補とう融通無碍な姿勢ではわが党に友好的とみなすことはできない」実のところ、公明党・創価学会は、かなり厳しいところに追い込まれているのである。にもかかわらず、彼らとのパイプを梃子に自民党内での発言力を増そうとする愚かな政治家がいる。都知事選挙を公明・学会とともに敗れたにもかかわらず、責任をとろうともしない。こういう人たちは、学会・公明党が付け入るには、格好のターゲットだろう。現に創価学会から票をもらってから、それまで声高にまくし立てていた学会批判をピタリとやめてしまった自民党幹部が何人もいる。いずれ自民党は創価学会=公明党ウイルスに侵され、公明党化してしまうのではないか。「現世利益第一主義」という点で、創価学会と自民党は案外波長が合うのかもしれない。かつて創価学会=公明党による言論出版妨害事件が起こったとき、民社党はその批判の急先鋒だった。ところが公民選挙協力という餌に食い付き、やがて議員の生殺与奪の権を握られてしまうと、決して公明=学会批判をしなくなってしまった。その後民社党は公明党と組んで新進党を作ったものの、「創価学会に支配されている」という自民党の攻撃が奏功して、新進党は総選挙で敗れ、結局解党してしまった。恐るべし、公明党ウイルス。
「創価学会が全体として自民党を推すということはありえない」と見る白川も、学会に対して宥和的な党幹部を、こう牽制する。
「個々の政治家が創価学会の応援を受けるのは自由です。しかしそれによって創価学会が自由民主党の友好団体と言えるわけではない。内閣や党の幹部で創価学会の応援を受けている人もいるけれども、彼らに言いたいのは、自分の選挙区事情と党全体の事情とを混同しないでほしいということだ。党幹部は自分の当選もさることながら、党全体の勢力を伸ばす責任がある」残念ながら自民党には「自分の選挙区事情と党全体の事情とを混同」する政治家が少なからずいる。そこに自民党の弱さと、公明党にとってのチャンスがある。
石原慎太郎は都知事選当選第一声で「既成の政党はほとんど価値がなくなったって、都民、国民が全部思っているのに、政党の人が見事に鈍感に感じていない」と、痛烈に批判したが、明らかに、矛先は自民党に向いている。
同じ都知事選で自民党候補としては不適格と烙印を押され、無所属で闘った柿澤弘治夫人・映子の「どうして自民党は誇りと自信を失ってしまったのか、これだけ優秀な人材を持つ政党でありながら、どうして他党の力を借りなければ闘えないのか、不思議でなりませんでした」という台詞を、ウイルスに感染した自民党幹部はしかと噛み締めるべきだろう。
創価学会には熱狂がある。しかし、その実、孤独である。学会をあてにする政治家は、創価学会の熱狂と孤独をともに引き受ける覚悟をしなければならない。しかし彼らに、その覚悟はあるだろうか?(文中敬称略)
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