根尾知史です。シャルル・ドゴール将軍の助力で1944年に創刊されたフランスの一流紙「ル・モンド」の子会社から発行されている、月間誌「ル・モンド・ディプロマティーク」の記事から、一部抜粋で転載します。筆者のフレデリック・ロルドンという経済学者は、ネオ・リベラル(新自由主義)の喧伝するグローバル化の規制緩和によって、世界各国の政府が、国債の資金調達を外国資本に頼るようになったことを論じています。
こうしたなかでも日本政府だけは、その95%以上を国内貯蓄で調達してきたという事実を評価して、フランス政府もこれにならえと主張しています。
興味深いのは、増税するよりも国内預金を国債に振り当てることで、「一般納税者から金融資産保有者へと、即時の再分配が実現される」という視点です。
つまり、国家財政の債務支払いを増税によってまかなおうとすると、その税金を負担するのは大部分が国民の貧困層であり、反対に、国債を発行して国内預金で買い付けさせえるようにすれば、その負担は国内の富裕層にまわされるようになる、という考え方です。
それから、グローバル化によって、政府の財政資金調達を外国投資家の資金に頼ることで、国家は外国資本の奴隷となり、その「主権」を失ったのだと言って、新自由主義(ネオ・リベラル)の過度な金融グローバル化の現状を攻撃しています。
「ル・モンド」紙自体が、中道左派で、この「ル・モンド・ディプロマティーク」誌も反ネオ・リベラルであるそうです。
長い文章なので、重要な箇所だけ転載します。全文は、以下のアドレスで読めます。
http://www.diplo.jp/articles10/1005-2.html
(部分転載貼り付け始め)
●「ギリシア危機から脱グローバル化へ」
フレデリック・ロルドン(Frederic Lordon)経済学者
訳:日本語版編集部
ギリシア国債の70%は、フランスやドイツの銀行をはじめとする外国の投資家に保有されている。そのため、この国の政策は金融機関の監督下に置かれている。同じ状況が、スペイン、イタリア、ポルトガルにまで広がる可能性がある。だが、政策詮議の主権を確保する手段は存在する。政府債務の資金調達先を国内に戻せばいいのだ。[フランス語版編集部]
(中略)
日本の政府債務はと言えば、2010年には対GDP比200%に達する見込みであり、経済協力開発機構(OECD)加盟国の中ではダントツだ。世界最大の政府債務を抱え、しかも償還の見込みが(対GDP比という簡便な尺度で見る限り)最低レベルに落ち込んでいる国について、国際投資家がこれほど無関心なのは一体どういうことか。
答えは単純この上ない。国際投資家は日本国債を購入していないからだ。日本国債の95%以上は国内貯蓄によって消化されている。日本は米国とまったく逆に貯蓄率が高く、政府の資金需要に対し、さらには企業の資金需要に対しても十分に応えることができる。
(中略)
ほとんどの先進国では、1970年代以降の成長鈍化によって、財政赤字の補填問題が慢性化していたからだ。なかでもフランスは、造幣によらない赤字補填を第一の目的として、独自の規制緩和へと明確に乗り出した(3)。しかし、貯蓄の国際的循環という妙案に飛び付いた国は、いずれも間もなく、その代償が従属であることに気付いていった。
(中略)
日本がたいへん興味深いのは、まさにこの点だ。勝手気ままな貸し手の権力から解放されるには、相手を取り替えればよい。日本は賢明にもそうした。というか賢明にも、他の多くの諸国を投資家の手中に陥れた当初の変化に乗らなかった。
(中略)
グローバル化のイデオロギーが国境、とりわけ資本の移動を妨げるような国境の全廃を称揚したのと裏腹に、日本のケースは少なくとも政府債務に関する限り、持久可能なだけでなく、なかなかの布陣を示すものとなっている。
(中略)
日本の方式が非の打ち所のない解決策で、政府債務を際限なく制約もなく補填してくれると結論するつもりはない。対GDP比200%ともなれば、いずれ日本もとんだことになる可能性がある。とはいえ日本の方式に、巨額の政府債務を安泰に維持してきた力があるのは確かだ。ただし、国内保有以外にも、働いた条件があった。その第一は、政府と預金受入機関の協調である。非常に日本的な妥協の下に、金融機関と年金管理機構は積極的に「ゲームに加担」して、家計の資産を国債へと大量に振り向けてきた。預金者もことさら文句を付ける筋合いはなかった。
(中略)
・・・国内貯蓄を大量に国債に振り向けることで(もちろんフランスのように貯蓄がある国の場合)、赤字補填の大部分を国内に回帰させる道だ。長年まったく違うやり方になじんできたフランスの預金受入機関が、日本式の妥協を自発的に受け入れるとは考えにくいから、最低限の強制ルールは必要だろう。国内の投資家に対し、資産の一部を国債に振り向けることを強制すべきである。一部といっても、国債のほとんどを国内引受で消化できるだけの金額は必要だ。
(中略)
総合的に考えれば、この方式には利点が少なからずあり、欠点はさほどない。第一に、国債は適度の収益をもたらす。課税対象の利子は、非課税少額貯蓄に比べて高いが、法外というほどではない。国債はおおむね「リスクのない」資産であり、その利回りは金利の中でも最低基準となっているからだ。第二に、株式商品からの貯蓄の引き揚げは、少額預金者を痛め付ける株価暴落の反復から、貯蓄を守ることになる。つまり貯蓄にとって有益であり、しかも社会にとっても有益だ。というのは、株式への貯蓄の充当は、経済上不可欠ではないにもかかわらず(7)、株主が権力を握り、賃金を制約する手段となっているからだ。
(中略)
クラウディングアウト(締め出し)効果(8)の再燃という致命的な結果を招く、と言う人もあるだろう。だが、そんなことは起こらない。政府の資金需要を楽にまかなってなお民間部門「の分も残る」ほど、フランスの貯蓄率は高い水準にある。
(中略)
財政赤字の資金調達は、国内回帰によって、国際投資家という第三者を抜きに、国内の社会契約の問題へと全面的に還元されることになる。資金問題に付き物の利害衝突に裁定を下す力が、政治体の手に取り戻されることになる。ブルーノ・ティネルとフランク・ヴァン=ド=ヴェルドが示したように(10)、世代間衝突が都合よく前面に押し出され、「我々が子供たちに残そうとしている債務」式の繰り言が続いているが、それは根本的な衝突を見えなくするためだ。なんら過去のものではない根本的な衝突とは、貧富のそれである。債務の支払いは納税によって貧者が負担し、国債は富者が保有する。
こうして一般納税者から金融資産保有者へと、即時の再分配が実現される。
(中略)
国債の利率をどう設定し、総額をどう定めるべきかというのは、政治体が全面的に判断すべき問題だ。そのためには、国債保有者の大部分は、その国の市民でなければならない。つまり、債権者と債務者の相反する利害の衝突は、主権の及ぶ範囲内で繰り広げられなければならない。
主権を回復する
そうなって初めて、国政の立候補者が税制についてと同じく財政についてもまた、それぞれの主張を国民の審判に委ねるという状況が実現される。
(中略)
相互に対立する結果についての裁定者は、政治体とその下部集団をおいてほかにない。国際投資家ではあり得ない。国際投資家は債権者としての利害に終始し、政治共同体とは無縁でありながら、その国の社会に甚大な影響を及ぼす種類の決定を強要できる立場にある。
(中略)
今や明らかになったように、自由主義はナショナルな空間など過去の遺物であると性急に主張し、その主張を現実化するための構造変革(ありとあらゆる規制緩和)の推進に努めてきた。19世紀と20世紀の歴史を見れば、「ナショナリズム」という名のネーション原理の肥大を警戒するのは確かにもっともだ。しかし、この間に、政治主権に代わる別の有効な概念が生まれたわけでもない。そうした背景の下で、自由主義は主権の概念まで一緒くたに切り捨てつつ、それを国よりも大きな領域で建て直そうとはしないのだ。欺瞞もいいところだ。
(中略)
だが、政治体を構成する諸々の集団による詮議、ルールの制定、施行こそ、新自由主義がなんとしても阻止したいことだ。これまで我々は新自由主義に好き勝手を許してきたが、どこまでそれを続けるつもりなのか。
(中略)
政治による詮議という古くさい方法を採れば、政府債務についての裁定を完全に取り戻すことになる。当世風に激しくグローバル化された世界を採れば、世界各地の債権者が国内の富をどれぐらい吸い上げるか、資本市場が決めることになる。
(中略)
グローバル化というのが結局のところ、万物の市場化による主権の解体にほかならないとすれば、脱グローバル化へと進むこと、それが政治の意義を回復する道である。
(部分転載貼り付け終わり)
「ル・モンド・ディプロマティーク日本語・電子版」
2010年5月号から
http://www.diplo.jp/articles10/1005-2.html
根尾知史拝